螺旋の海 プロローグ
「ねえ、お兄ちゃん、海って知ってる?」
「うん。実際に見たことはないけどね。なんで?」
今日は朝から雨だった。晴れていた昨日は兄妹二人で落ちているドングリを集めたりして遊んだが、今日は家でおとなしく絵を描くことにした。
双子を引き取ってくれた新しい養父母は二人揃って出かけており、今は家にいない。西ドイツに亡命してきて昨日も会見をしたばかりだが、養父が元東ドイツ政府高官ということもあってなかなか忙しいらしい。
リビングのテーブルには買ってもらった画用紙や色鉛筆、クレヨンが散らばり、双子はそれぞれ思い思いの絵を描いている。兄のヨハンは荒野の中を双子が歩いている絵、妹のアンナは空と白い雲、青い海の絵。
色鉛筆で色を塗り込んでいるとアンナが質問を投げかけてきたので、ヨハンは答えながら手の動きを止め、アンナを見た。
「あのね、前の孤児院で海の絵本を読んだの。海はね、こーんなにおっきくて青いんだって。エルナ先生に聞いてみたら、その通りよって言ってたよ」
「へえ」
アンナは身振り手振りで両手を広げながら海のことを話してくれたが、ヨハンはそれよりも別のことが気になった。アンナの口から出た絵本という単語。耳にした途端、どくんと心臓が跳ねた。訳もわからず、やけに胸がざわざわする。とても嫌な、怖い絵本を読んだことがあったような気がする。
あの511キンダーハイムを経て、ヨハンの記憶はかなりの部分が抜け落ちていた。それでもアンナのことだけは忘れずに済んでよかったと心から思う。511を壊滅させたのも、すべては記憶が消えていくことに堪えられなかったためなのだから。
「だから一度は見てみたいなって思ったの。でもこの街にも海はないのね」
ヨハンの様子をよそに、アンナは夢見るような目で海について話している。
「だめだよ、アンナ。海を見たいならもっと北に行かなくちゃ」
「そうなの? けっこう遠いのかな」
「うん。でも海もアンナのものだから、いつかは見られるよ」
本心だった。海も、草花も、ドングリも――アンナの欲するものはすべて彼女のものなのだ。
「ふふ、お兄ちゃんたら、またそれ? でもそうね、いつか見に行けたらいいな、お兄ちゃんと一緒に」
「うん、約束だよ。二人だけで見に行こう。いつかきっと」
笑って約束を交わすと、二人はまた絵を描き始めた。
平穏だった。あの凄惨な511キンダーハイムが嘘のように、平和な日常だった。
ヨハンとアンナ、二人はずっと一緒にいられると、ただそう思っていた――。