螺旋の海 第1話

 不意に、意識が目覚めた。
 薬品の匂いが鼻をかすめ、機械の電子音が近くに聞こえる。手足の感覚はまだ鈍く、夢の中にいるような錯覚を覚えた。気づくと、寝かされた身体はチューブでつながれている。
 ――ここは病院だ。でもどうしてこんな所にいる?
 目を閉じたまま、ヨハンの中で記憶が錯綜する。思い出したい記憶、忘れたい記憶。どちらもたくさんあった気がする。ゆっくりと、記憶の糸を解いていく。徐々に、徐々に。
 確か、あるものから逃げていたはず。何から? それはわからない。ぼんやりと思い浮かぶのは、銃声、流れていく血、黒い影。
 そうだ、思い出した。僕はアンナに撃たれて――。


 それなのに、未だに自分は生きながらえている。
 ヨハンを助けた――蘇らせた者がいるからだ。遠のく意識の中、かけられた声を覚えている。
『大丈夫だ、頑張れ! 僕が助けてやる!』
 はっきりとした力強い声だった。


 その時、ドアの開く音がした。部屋の照明が灯され、明るくなる。誰かが入ってきたのだ。その人物はベッドのそばの椅子に腰かけると、ヨハンに語りかけるように話し始めた。声の主は、あの時の声と同じ――ヨハンを執刀した医師だった。


 彼の話はヨハンを執刀することになった経緯だけにとどまらなかった。居場所のない日本から西ドイツに単身渡ってきたこと、夢、そして現実への失望――。ヨハンには何の関係もないプライベートなことまで赤裸々に語っていく。彼の声には失意の感情がありありと感じられた。
 さらに院長のことに話が及ぶと、それまでとは打って変わって声を荒げ始めた。医師としての信念、院長への恨みが、烈火のごとく吐き出されていく。
「――あんな奴、死んだほうがましだ!」
 彼は院長を殺したいほど憎んでいた。思いをまくし立てると、落ち着いたのか小さく息を吐いた。
「君のおかげだよ。君が僕に医者としての目を開かせてくれた。頑張って生きるんだぞ。僕はすべてを失ってまで君のオペをしたんだ」
 そうまでして僕が君を生き返らせたんだからね、そう言って彼は部屋を出て行った。


 あんなことを言われたのは初めてだった。生きる――怪物でもいいというのだろうか。アンナはヨハンの怪物を許さなかった。でも、もしかしたら、彼なら――。


 暗いICUで、ヨハンは目を開ける。その青色の瞳に怪物の片鱗を覗かせながら。
 ――そう、それなら。僕を助けたことですべてを失ったというのなら、僕が代わりに彼らを殺してあげる。僕ができるのは、それだけだから。


 なぜ彼が、眠っているはずのヨハンにこんな話を聴かせてくれたのかはわからない。ただ鬱憤を晴らしたかっただけで、相手は誰でもよかったのかもしれない。
 ――それでも、彼は――そう、僕にとっては親みたいな存在だから。
 彼の憎悪がヨハンの中の怪物を大きく突き動かした瞬間だった。



 ヨハンにとって、成人男性三人を殺害することなど造作もないことだった。病院で厳重に管理されているはずの劇薬を手に入れることも、キャンディの中にそれを含ませることも、院長たちに写真を撮られた時にそのキャンディを素知らぬ顔して彼らに渡しておくことも、それは他愛もないことだった。


 事を済ませると、病院の警備が手薄になる夜の時間を見計らって、寝間着のままアンナを連れ出す。アンナの様子は未だ戻らないが、昼間のように叫び出すことはもうなかった。
 月明かりの中、ふと背にしたアイスラー記念病院を振り返る。まもなく院長たちの死によってこの病院も騒がしくなることだろう。
 ――もう少し、声を聴きたかったな。
 日本人という割に、訛りのない流暢なドイツ語。あの日本人脳外科医――Dr.テンマのことをヨハンは思い浮かべた。


 彼はいわば怪物の共犯者のようなものだ。死ぬはずだった怪物を生き返らせたのは、他ならぬ彼自身。ひいては怪物の存在を共有すべき親なのだ。だが彼がそれを知るのは、まだ先だ。ヨハンにはわかる。彼を殺さずに生かしておけば、きっと面白いことになる。
 ――あのヴォルフ将軍のように。


 ヨハンは既視感を覚えていた。
 国境付近で倒れていたところをヴォルフ将軍に助けられたあの時と似た状況が今再現されている。511キンダーハイムでかなりの記憶が消し飛んだが、ヨハンの中に残る数少ない記憶の内のひとつがそれだ。
 名付け親となり怪物の親となったのがヴォルフ将軍なら、その神の手で怪物を生み落としたのがDr.テンマだ。怪物の生みの親というキーワードを持つ二人は、その点において他の里親たちとは一線を画す存在でもあるのだ。


 ヨハンは、まさに新たな怪物として生まれ変わったような心境だった。
 アンナの手を引きながら、いつの日か来るDr.テンマの未来を思い描いて一人小さく微笑んだ。



 その後、ヨハンとアンナはハイデルベルクのフォルトナー夫妻の許に引き取られることになった。子供のいない二人は突如現れた身寄りのない双子を不憫に思い、本当の子供のように接してくれた。ヨハンは、そんな寂しくも心優しい人間を探し出す術に長けている少年だった。まるで宿主を死ぬまで食い尽くす寄生虫のように。


 だが、相変わらずアンナの様子は芳しくない状態が続いていた。以前のように笑顔を見せてくれることも、お兄ちゃんと軽やかな声で呼んでくれることもなく、心を閉ざしたままだ。悪魔が――怪物のヨハンがそばにいるためだ。
 ――このまま僕がそばにいてはだめだ。アンナが壊れてしまう。
 日に日に疲弊していくアンナのことを考えれば、ヨハンが家を出るべきなのは明白だった。この優しき夫婦の許なら、アンナを一人にしても大丈夫だろう。


 ヨハンがもっと大きくなって力を付け、誰の保護も必要としないくらいの大人になれば、また一緒にいられるようになるはず。そう、20歳の時に迎えに行けばいい。その時こそ二人で約束の海に行くのだ。
 窓際の椅子に座ったまま無言のアンナを、ヨハンはやさしく抱きしめる。またねアンナ、と呟くと、名残惜しいままに部屋を後にした。



 ヨハンは一人、ドイツ各地を転々と彷徨う。怪物に過去はいらない。名を変え、親を変え、そのたびにヨハンは存在しないものになる。誰もがヨハンを忘れていく。
 ベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツが統一するとドイツ社会は様変わりしていったが、ヨハンにとってはやはりどうでもいいことだった。月日が過ぎ去る中、ただひたすら、ヨハンの中の怪物は彼を蝕んでいった。


 ひと月後に16歳の誕生日を迎えようとしていた、ある日のこと。
 ヨハンは久しぶりにデュッセルドルフに立ち寄っていた。これからこの街である組織を立ち上げる。ヨハンにとっては何てことのない遊び、ゲームのようなものだ。顧客が不法に得た莫大な資金を、法律の抜け穴を使っていかに追跡されずに日の目を見せるか。欲望にまみれた大人たちをどう弄るか。大した意味はない。いずれ始める予定の、ある計画のシミュレーションくらいにはなるかもしれないとは思っているが。


 ヨハンは懐かしい建物を見上げた。アイスラー記念病院だ。病院の敷地に入ると中庭の奥の木に身を潜め、中庭にいる人物を見つめた。
 ――Dr.テンマ。
 彼は芝生に腰を下ろし、車椅子に乗った患者の少年と親しげに話していた。5年前と全く変わらない姿で、ひと目見ただけですぐに彼だとわかった。こちらは背も伸びてだいぶ姿も変わったのにと、ヨハンは口元を緩める。
 院長の死後、テンマは外科部長に昇進したと聞いたが、少年に向ける笑顔からはそんな肩書きなど微塵も感じさせない。少年のほうも飾り気のない彼に懐いているようだ。


 もしもヨハンがあのまま病院にいたら、あの少年のようにテンマと会話することもあったのだろうか。院長の件を言ったら、彼はどんな顔をするだろう。――いや、それはまだ早い。彼に真実を伝えるのはもう少し後だ。彼の運命はもう決まっているのだから。
 テンマの姿を目に焼き付けると、ヨハンは何もせずにその場を離れた。



 それから4年が過ぎた。
 さらにヨハンの背は伸び、もうすっかり青年の姿だ。長く待ち望んでいた20歳の誕生日を控え、いよいよ行動に移す時が来た。
 Dr.テンマの目前で用済みのあの男を処刑し、9年前の事件の真相を告白する。すべてはヨハンの算段だった。


 建設中のビルは夜になると静まり返り、これから始める “儀式” に相応しい佇まいとなる。Dr.テンマは何も知らずに患者の男の後を追い、ヨハンの前に姿を現した。4年経った今も相変わらずの容貌で、あれから歳を取っていないようにさえ感じる。9年前に執刀した少年のことなどとうの昔に忘れているだろうと思っていたが、意外にも彼はヨハンを覚えていた。その事実に微かな笑みが漏れる。


 ヨハンが男に銃口を向けると、テンマは当然のようにヨハンの説得を試みた。ヨハン・リーベルトとしての過去を言い連ね、逃げ延びることは不可能だと言う。
 そこで初めて、本当の名前ではないこと、他の誰もヨハンの過去を知ってはいけないことを彼に明かす。ただ一人、“親みたいな” Dr.テンマは別だと付け加えて――。


 それでもなお、剥き出しのコンクリート壁にテンマの必死な声が響き渡る。彼は怪物のヨハンに命の平等といった倫理観を説き、あまつさえヨハンの命を救ったことで医者の本分に立ち返ることができたとまで言い切った。


 ……無性に可笑しかった。皮肉とはこういうことかとヨハンの口から渇いた笑いがこぼれる。
 ぽつぽつと雨が降り出し、辺りに雨の匂いが広がっていく。
 さあ、彼に真実を伝えなければならない。テンマのあの言葉がなければ、院長ら三人が死ぬことはなかっただろう。彼らの死は、テンマの悪意がヨハンの怪物を駆り立てたことから始まったのだ。


 あの時、彼への恩返しのつもりだったのは本当だ。ヨハンはDr.テンマの手によって生まれ変わった怪物だ。彼のためになるならと思い、実行した。
 だが、彼の目の前で処刑を行うのも、9年前の真相をわざわざ知らしめるのも、それによって彼がショックを受けるのも、すべては彼がヨハンの存在を無視できなくなるからに他ならない。
 テンマにとってはただの患者だったヨハンが、彼の影になり、悪魔となり、怪物の子となる。彼の中で大きな存在となっていく。アンナにとってのヨハンのように――。


 男を滞りなく射殺すると、ヨハンは決定打となる言葉をテンマに浴びせた。
「僕はあの時、死んでいたはずだったんだ。先生が僕を生き返らせたんだよ」
 ヨハンは歩き出し、彼の横で立ち止まる。放心状態の彼と視線を交わし、微笑んだ。


 降りしきる雨の中、ついに歯車が廻り始めた。
 ――さあ、目を逸らさないで、僕を見て。僕だけを追いかけてきて、Dr.テンマ――。

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