ふたつの朝

 三匹のカエルに親子三人で暮らしていた頃、母はよく歌をうたっていた。
 東側西側を問わず、様々な国の歌を聴かせてくれたが、中でも母の一番のお気に入りは、母の育った郷里に伝わるという古い民謡だった。母は漏れ出る歌声が怪物に見つからないように、自在に声色を変える特技の持ち主だったが、それでも深く伸びやかな歌声は変わらず、子供心に好きだったことを覚えている。


 あの時も、いつものように母はその民謡を歌っていた。傍らで聴くのは、髪から服までそっくりの双子の兄妹。怪物の目をごまかすために、いつからか母は兄に妹と同じ姿をさせていた。
 その母が突然歌うのをやめ、怯えた表情を浮かべたのは、外の異変に気づいたからだ。窓の外を見下ろすと、ざわめく喧騒の中、真っ黒な政府公用車が建物の入口に停まった。外の階段を駆け上がる音が次第に大きくなるのを、兄と妹は母にしがみついてただ聞くしかなかった。
 ついにドアが勢いよく開かれ、その向こうにはあの怪物が立っていた――。


「……夢……」
 目を開ければそこは三匹のカエルではなく、テンマと共に暮らすアパートの一室だ。
 窓から朝の陽光が差し込み、部屋を明るく照らしている。窓の外からは小鳥のさえずりが忙しなく聴こえてくる。
 額の汗を拭ったヨハンは、深く息を吐いた。以前より悪夢を見る頻度は落ちてきている。だが、夢の内容がより明瞭になってきている気がするのはヨハンの錯覚だろうか。
 …………歌。
 母が歌っていたあの歌は、どんな旋律だったか。……思い出せない。
 ヨハンはかぶりを振って、それ以上思い出すのをやめた。過去のことなど、もう考えたくもない。
 ……今日はテンマと一緒に出かける約束をしていた日だ。


◇ ◇ ◇


 今日はヨハンと一緒に出かける約束をしていた日だ。
 以前、料理の上手なヨハンに日本の料理を作ってもらおうかなと漏らしたところ、日本料理のことはよくわからないので、まずテンマに見本として作ってほしいと言われたことがあった。醤油――家にある数少ない日本のものだ――をちょうど切らしていたこともあり、この休みに日本食料品店へ二人で買い出しに出かけることになったのだ。
 ドイツでも大抵の都市なら、日本の食材を揃えている日本人経営の店がある。大きなスーパーやアジアンショップでも手に入る物はあるが、今回は日本食専門の食材店に行くことにした。


 朝、ヨハンと顔を合わせて、ヨハンの様子がいつもと違うことにテンマは気づいた。
「ヨハン、少し顔色が悪くないか?」
「そうですか? 多分寝覚めが悪かっただけじゃないかな」
「そうなのか? 具合が悪いなら、出かけるのはまた今度にしても」
「もう大丈夫ですよ」
 些か気にはなったが、ヨハンがそう言い張るので、追究はやめておいた。朝食も残さずきちんと食べていたし、気にするほどのことではなかったのかもしれない。


 車を30分ほど走らせた所に、目的の店はあった。日本米、醤油、味噌、海苔、だしの素、ごま油、梅干しなど、懐かしい食材を次々と買い物かごに入れていくと、それらを不思議な面持ちで見ているヨハンが妙におかしかった。日本人のテンマと、チェコ出身のヨハンと。二人が今一緒にいることの奇妙さを今更ながらに思う。


 テンマがレジで支払いをしていると、先にヨハンが店の外へと向かう。何か気になることがあったようだ。
 支払いを終え、荷物を持ってテンマも店を出る。店先にヨハンの姿を見つけるが、ヨハンは真っ青な顔で立ち尽くしていた。明らかに普段と様子が違う。
「ヨハン、どうした?」
「……この歌……あの民謡だ……」
 ヨハンは虚ろな目をして、震えた右手で口許を抑えた。何か尋常ではないことが、ヨハンに起きている。


 ヨハンの言う通り、確かに歌が聴こえる。辺りを見回すと、歌の主は子供連れの若い母親だった。6、7歳くらいの双子らしき女の子二人と手をつなぎ、仲良く歌いながら歩道を歩いている。傍から見れば微笑ましい、どうってことのない日常の風景だ。
「ヨハン? 歌がどうしたんだ?」
 テンマは荷物を地面に置いて、ヨハンの両肩に手を置き、呼びかける。だが、ヨハンの震えは止まらず、テンマのほうを見ようともしない。
 ――双子の親子。そしてあの歌……。ヨハンの心の傷に関係する、何らかの引き金だったのだろうか。


 ともかく、ヨハンの肩を抱いて、そばのベンチに座らせる。双子の親子が角を曲がって姿が見えなくなり、歌も聴こえなくなると、ようやくヨハンの震えが止まった。
「落ち着いたかい」
 ヨハンにペットボトルの水を渡そうとして、そういえば車内に置いてきたことをテンマは思い出す。
「……はい。もう大丈夫です、先生」
 そうは言っても顔面蒼白で、とても大丈夫そうには見えない。そんなテンマの心配が伝わったのか、ヨハンが繰り返して言う。
「いえ、本当に大丈夫です。しばらくすれば治まるので」
 気丈に言うヨハンに、テンマはただ頷くしかなかった。


 ヨハンの様子が気がかりだったので、その日はもう帰宅することにした。
 車での移動中も、助手席のヨハンは終始目を瞑って、苦しそうに顔を歪めていた。やはり今朝感じたヨハンの異変は見間違いではなかったのだ。あの親子との遭遇はテンマの責任ではないが、今日この日に出かけなければヨハンがショックを受けずに済んだのかと思うと、やりきれなさだけが残った。


 帰宅後、ヨハンは熱を出した。それでもヨハンは夕食を作ると言ってきかなかったが、テンマがしっかり休むようにきつく言うとおとなしくなった。そういえば仕事が忙しいことにかまけて、家のことをヨハンに任せきりだった気がする。今までヨハンに頼りすぎていたことをテンマは思い知らされた。
「ヨハン、食事だけど、何か食べたいものは? 食欲はどうだい」
「いえ、特には。食欲もあまり……あ」
「どうした?」
「具合が悪い時とか、風邪を引いた時に食べる日本料理が確かあったでしょう。ええと、何だったかな……」
「……もしかして、お粥のことか?」
「そう、お粥。日本のお粥を食べてみたいのだけど、だめですか」
 ヨハンの意外なリクエストに、テンマは驚く。この間から日本の本を読んでいたようだから、そういう知識があってももちろん不思議ではないのだが。買ったばかりの日本米が手元にあるので、作るには問題ない。
「いいけど、君の口に合うかはわからないよ」
「はい」
 ドイツにもミルク粥などはあるが、日本の粥とは全く違う。念のため、口にしやすい野菜スープなども一緒に作っておいたほうがいいかもしれない。それにシンプルな白粥ではなく、味付けも食べやすいように濃いめにして、卵も入れてみるか。


 作った食事と飲み物、食べやすくカットしたリンゴなどをトレーに乗せて、ヨハンの部屋に運ぶ。口に合うか不安だったが、少しずつゆっくりでも、ヨハンはちゃんと食べてくれた。気に入ってくれたようで、ほっとする。
「日本料理といっても、最初はもっと違うのを作るつもりだったんだけどね」
 そもそも昼間に日本食材店に行ったのも、そのためだったはず。ヨハンの調子が戻ったら、また作ればいいか。
「まあ、それはまた今度だな」
「楽しみにしています」
 ヨハンが小さく微笑った。



 その夜。
 隣の部屋から突然叫び声が聞こえ、テンマは目を覚ました。ヨハンの部屋に駆けつけ、部屋の明かりをつけると、呼吸を荒くしたヨハンが身体を起こそうとしていた。
「ヨハン、大丈夫か?」
 ヨハンの肩に手をやり、声をかける。汗をびっしょりかいたヨハンが、ブルーの双眸を見開いたままテンマを見る。
「……先生……」
 次の瞬間、震えた腕でヨハンがテンマに抱きついてきた。子供のようにしがみついてくるヨハンを、テンマは振り払わずに抱きしめ返す。
 文字通り、全身全霊で縋りついてくるヨハンに、テンマはもう認めるしかなかった。ヨハンがテンマに親を求めているように、いまやテンマにとってもヨハンは家族に近い存在となっている。
 彼の苦しみを分かち合いたい。強く、そう思った。
「もう大丈夫、大丈夫だから」
 ヨハンの髪を撫で、あやすように言葉を繰り返す。次第に、ヨハンの呼吸の間隔が和らいでいく。


「落ち着いたか?」
「もう少し……もう少し、このままでいさせて」
 テンマの肩に回された腕に、さらに力が入る。テンマも、より強く彼を抱きしめた。しばらくそのままでいたが、平静を取り戻したヨハンがぽつりと呟いた。
「先生……聞いてくれる……?」
「何だい」
「先生と暮らす前に一度……母さんに会いに行ったことがあるんだ」
「……ああ、知ってるよ。君と暮らし始めてから、私も一度、君のお母さんを訪ねたんだ。あの人は君が会いに来てくれたことを喜んでいたよ」
「……知らなかった」
 ヨハンは腕を緩めて身体をやや離し、驚いた顔をしてテンマを見た。
「黙っててごめん。いつ言おうか迷っていたんだ」
「ううん。……母さんは僕の姿を見て、僕の本当の名前を口にした。あなたの言った通りだった。それを聞いたら、もう……何も訊けなかった」


 ヨハンはまたテンマに抱きついて、淡々と語り始める。
「昼間のあの歌……母さんがあの時うたっていた歌なんだ。怪物が現れるあの直前まで……。あなたと暮らし始めて、もう過去のものだと思えたはずなのに……こうして何度も夢に現れて、過去を見せつける。むしろ前より鮮明に思い出すんだ」
 最近のヨハンは、以前よりもずっと表情を見せてくれるようになった。名前を得て、普通の生活を送り、誰も殺す必要のなくなった彼は、人間性を取り戻しつつあるのだろう。
 だがそれは裏を返せば、痛みや苦しみといった人間であるが故の感情が付きまとうことを意味する。
 怪物だった時のほうが、ヨハンにとってよかったなどとは決して思わない。それは絶対に。だが目の前で苦しむ彼を見ていると、どうすればよかったのか自分でもわからなくなる。


 一人逡巡していると、ヨハンが振り絞るような声で囁いた。
「先生、ずっと……ずっとそばにいて。監視でも何でもいいんだ」
 ――監視。ディーターがいつか言っていた言葉。ヨハンがそう思い込んでいると――。
「……監視なんかじゃない」
「え……?」
「私はそんなことのために君といるんじゃない。だから……安心して眠るんだ」
 すると、ヨハンは何か言いたげな表情を浮かべた。
「ヨハン?」
「……いえ、何も。……ねえ、先生、お願いがあるんだ」
「何だい」
「今日はここで一緒に寝て」
 これにはテンマも固まった。ベッドもシングルだし――いや、そうじゃなくて、成人男性二人が一緒にというのは、さすがにどうなのだろうか。
「ヨハン、それは……」
「お願い。今だけはそばにいてほしいんだ」
「いや、でも、それは」
「ディーターにはできて、僕にはできないの」
 今日のヨハンはいつになく強情だ。いや――ひょっとして、これが彼の本来の素顔なのか。
 そもそもディーターと比較すること自体、かなり間違っている。いるのだが、ディーターの名前まで出して一向に引き下がらないヨハンに、最後は根負けした。仕方ない。……我ながら、甘いと思う。
「……わかったよ。ただし、私は寝相が悪いけど、それでも我慢すること」
「はい」
 ほっとしたようにヨハンの顔が少しだけ綻んだ。
「それから着替えること。そんなに汗をかいた後にそのまま寝たら風邪を引いてしまう」
「……ああ、そういえば」
 テンマに言われてからやっと気づいたように、ヨハンは汗で冷たくなった長袖のTシャツを見下ろした。


「人肌は久しぶりだ……。アンナと二人だけの時もこうして眠ったんだ」
 そう言ってヨハンはテンマに身体を寄せてくる。
「あの、ヨハン……これはちょっと近すぎないか……?」
「あ……ごめんなさい。暑かった?」
「いや、そういうわけじゃないが……」
 ヨハンは少しだけ身体を離す。大きなベッドではないから、さほどの距離ではない。
「……先生は人肌は嫌いなんだ? 僕は好きかな。さっきも抱きしめてもらったら落ち着いたから」
 今日のヨハンは熱に浮かされているからなのか、やけに幼い印象を受ける。素直に気持ちを告げてくるヨハンに先程のことを急に思い出し、テンマは顔が熱くなるのを感じた。あの時はただヨハンを助けたい一心だったから――。
 気づけばヨハンはもう寝息を立て始めていた。今日は色々なことがあった。疲れて当然か。熱もまだあるし、ゆっくり休むといい。
「おやすみ、ヨハン」
 ヨハンに小さく声をかけ、テンマも目を閉じた。


◇ ◇ ◇


 ……朝だ。
 ヨハンは緩やかに瞼を開ける。部屋を射す窓の光も、聴こえてくる鳥のさえずりも、いつもと変わらない朝の風景だ。――隣で眠っているただ一人の人物を除いては。
 テンマは静かに眠り続けている。
 このまどろみの時間を壊すのも何だか惜しくて、テンマを起こさずに、ヨハンはただその寝顔を眺める。彼がそばにいるだけで、これほどまでに違う朝になるのか。ヨハンは新鮮な驚きをもって、テンマを見つめ続ける。
 少し癖のある黒髪に触れて、指で梳いてみる。すると、ようやくテンマが目を覚ました。ゆっくりと、漆黒の瞳が姿を現す。
「おはよう、先生」
 ヨハンが声をかけると、テンマはほんの束の間驚いた顔をして、すぐに目を細めた。
「……おはよう、ヨハン。よく眠れたか?」
「ええ、おかげさまで」
「そうか」

 昨日とはまるで違う、穏やかな朝。
 また、新しい一日が始まる。

<了>


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